覚醒者と盲目者 [想念観察]

覚醒者と盲目者についてのお話です。

聖書などによく出てくる覚醒者。
これはどういう人なのかと申しますと。


簡単にいうと、想念に気づいている人が覚醒者です。


一見、あらゆる修行を行い、悟りを開いた偉い人のように聞こえますが、そうではなく自分の流れて来ている、または流れた想念に気づいている人。

そのことを覚醒者と言います。

覚醒者は常にもう一人の自分が存在しています。
そして、いま自分がしていること、考えていることがすべてわかっているのです。

その、もうひとりの自分とは今まで何度もお話している「本当の自分」です。

もう一人の自分を常に意識していると、自分の行動、考え事などが自然とわかってきます。

第三者の目ですね。


Photo credit:vision / alicepopkorn


しかし、相手がいる時、しかも感情が高ぶった時などは、ついついもう一人の自分の存在を忘れ、その感情に流されてしまいます。


そのような時にでも、意識できるようになるには少し時間が必要になります。
あきらめずに、毎日少しづつでも意識していくうちに自然と出来るようになって行くのです。

 

それに対して、逆に想念と同化していて、喜怒哀楽にどっぷりハマっている人。

そう言う人は盲目者という事になります。

盲目者は、「自分が本人そのもの」であり、なんの疑いもなく思い込んでいます。
なので、もう一人の自分の存在にまったく気づいていません。


私も二年前までは、盲目者でした。


このようなお話をすると、「映画:マトリックス」を思い出します。
まさに、そのイメージだと思って頂ければ、わかりやすいかも知れませんね。

しかし、盲目者だからと言ってダメだと言う事ではないのです。

知らずに体験し続ける。
それも本人の選択です。

知りながら体験する、知らずに体験する。
同じ体験をしたとしても、感じ方はまったく違います。


何かの縁で気付かされることがあるかも知れない。
映画の、このひとコマのように、その人の気づく時期というものもありますし。


Photo credit:Film Matrix: a choice in your life / surfstyle

 

<Kさん>は言います。

想念観察をやっている期間が長いので、私には常にもう一人いますよ。
常に今の行動を見ているもう一人が後ろにいるのです。

今では、喜怒哀楽に入ろうと思っても絶対出来ないです。
例えば、ものすごい怒りの中、目から火が出るくらいの時でも今の状況がわかるのです。

今私は、「ものすごく怒っている」とわかっているのです。

すべてをちゃんと見ている。
とにかく今の自分というものを知る、これにはやっぱり想念観察しかないのです。

 
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私もまだまだ甘いんですが、

正直な話、自分の体験上、怒っている時はもう一人の自分はいなくなります。
その怒りによって、全思考、全感情が怒りに支配されてしまいます。

なので、そのお話を聞いた時すごいと感じました。


Photo credit:Zeus / spiritual_marketplace


喜怒哀楽の中でも特に怒りと言うのは、コントロールが効かない、隙間がない、余裕がとれない感情だと思います。

瞬間的に爆発しますから、どうしてもまだ観察出来ないでいるのです。
今は、それが私の課題ですね。

逆に笑ったり、楽しかったり、悲しいなどの想念と言うのは余裕、隙間があるので、マスターしやすいです。

私は、いま笑っている、いま悲しんでいるっていうのがわかるんです。

 

このように日常の喜怒哀楽を体験し、そしてそれに対して流れてきた想念を黙って流すことにより、エゴに支配されない、本当の自分がみえてきます。

これがプレアデスの想念観察なのです。

 

 

続きは次回に。


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「不安・恐怖」により、ついつい悩んでしまいエゴに左右されていた自分を「想念観察・感謝瞑想」によって不安・恐怖が存在できない「いま」に集中できる事を教えていただいた○○様、そして「FUJI日本」のグループ並びに、ご担当者様に深く感謝いたします。

想念観察を広めるグループ!FUJI日本

 

一人でも多くこの記事を知ってほしいので、よろしくお願い致します。
いつもありがとうございます。