2月18日

今日もまた一人、この病院から退院されていきました。
そしてその1時間後、入れ代わる様に入院される方が来ました。

退院するその分、入院される方もいるというわけですが…。
この病院はそのサイクルが非常に早い。


Photo credit:不速之客 / jennifer-kecl

ここに勤めて10ヶ月。
もうこの環境になれてきました。
人間は同じことを何度も繰返し経験していくと、どんな事にもなれていくのです。

「慣れ」というものに怖さを感じてしまいます。

以前は人間の死というものに対して、みじかには感じていませんでした。

ここではそれこそ毎日の様に、お迎えの連絡が入ります。
ここは他の病院や施設から、最期まで楽に過ごせる様にと最終的に移される病院なのです。



宇宙仙人クリエさんがお話します。

 
 -クリエ-



一つ真実がある。
どうあがいても死ぬ奴は死ぬんじゃ。

これも”運命”なんじゃ。
こんなセリフは実際にその事実を見て来た人間にしか言えぬのう。

よくよく胆に銘じてくれ。


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午前中に入退院の移動があり、午後(いま)は病院のホールでピアノと合唱の演奏会が行なわれています。
週3回の癒しの時間です。

入院患者さんのための演奏会で、各病棟からベッドごと下りてきて観に来ています。
もちろんご家族の方も一緒に観ています。

ここはホールの隣なので、自然と音楽が聞こえてきます。
非常に癒されます。

生の演奏はCDやBGMと違って、やはり良いですね。
もちろん演奏者は全員、病院職員の方です。


Photo credit:guardian of time / alicepopkorn

病院全体に歌が流れていきます。
午前中のあわただしい出来事が忘れ去られ、心の真から落ち着きが還ってくる感じがします。



2月19日

日が変わりました。

昨日、入れ代わる様に入院された方が、今日退院されて行きました。
入院されて15時間くらいでしょうか…。

この様なパターンも、ここでは少なくないのです。



クリエさんがお話した、

 「死ぬ人は死ぬ。
 それは運命なのだ。」

それは逆に、生きる人は生きると考える事ができると思います。

以前、寿命は自分で決めて来ているとお話しました。
この回の人生の大半を生まれる前に自分で決めてきている。

ただし、イレギュラー的に見えない存在たちによって変更される場合もある。



私が思っている様に、

現在この世に生を受けて、自分が決めてきた様に出来事が起きて起こされていると仮定した場合。
どうなんだろう、クリエさんの言った「運命」というものに当てはまるのだろうか。

ここで、チョット運命について考えてみたいと思います。

そもそも運命とはなんだろう。
いろんな考え方があると思います。

「人生または運命は自分で切り開く」
よく言いますが、はたして運命を変えることが出来るのか。

それとも逆に、運命とは自分がもって生まれて来たものであり、自分で変えることなど絶対にできない。
そういうものでしょうか。

それこそ重たいしこりとして前世からもってきた「カルマ」的、おもりでしょうか。

 

運命に似た様な言葉ですが、宿命というものもあります。
運命と宿命は似た言葉なので、同じように考える人がいるかも知れませんが、意味は全く違います。

宿命とは決定されて生まれて来たことであり、自分がどうあがいても変えることが出来ない。
変えようと思ってもかなわないことです。


Photo credit:Do you believe in Destiny ? / adoglovecat

たとえば、

どの星に生まれるのか。
男に生まれるのか、女に生まれるのか。
生まれた時、体に障害があるのか。
どんな両親に生まれたいのか。
など…。

すでに決められた事で、いまの自分では絶対的に変えようがない事実です。

スピリチュアル的に考えれば、それこそ生まれる前に高次元の人たちとのやりとりのもと決めた転生契約。
決めたレールの上に乗っかって、そのプログラム通り進む基本とも言えるもの。

その中にはおそらく、前世からの課題や宿題なども組み込まれているのでしょう。
生まれる前の自分が決めていたプログラムです。

 記事:前世について深く考える

それとは別に運命というもの。
これは生まれてからエゴ意識が芽生え、様々な分岐点を選択し人生の道を歩む。

学校、友達、恋愛、就職、結婚、…。
そこから来る様々な分岐点。
いやでも迫られる選択などです。

右へ行くのか、左へ進むべきなのか。
それとも逃げて後退するのか。

人に相談したとしても、最終的に決定・決断するのは、あくまでも自分自身です。

要するに自分に決定権がある、選択の自由というものです。

 記事:現実は自分が造ったものです

自分で選び、自分次第でいくらでも変えることが出来る。
そしてその先にある、まだ見えぬ一つ一つの答えや結果は、ある意味、運命ではないのか。

 「あの時が運命の始まりだったのか。」
 「あの出会いが運命だったのね。」
 …。


Photo credit:destiny / sophiadphotography

ただ言えることは、

どう決断したって、どの道に進んだって、その先にはものすごい体験が待っているということ。
なぜなら、体験するためにこの世に来たのですから。

様々な出会いの中には宿命的、運命的なそれこそ「遠い約束の人」は必ずいるのです。

 

2月20日

また日が変わりました。
運命とか宿命とか、非常に難しいことに手を出してしまい、昨日はそのまま寝てしまった。(汗)

クリエさんがお話した、

 「死ぬ人は死ぬ。
 それは運命なのだ。」

たとえば、

明日の18時に大地震が起き上空からの落下物によって死ぬ。
それは運命・宿命それとも寿命?

単に落下物の下にたまたま居たための、不幸な災難にあっただけ?

明日の21時に脳卒中によって死ぬ、と生まれる前に自分で決めてきた場合。
それは運命、宿命、寿命?

それとも寿命とは、あくまでも寿命であり82歳で死ぬと決めてきた場合、運命やカルマなどに関係なく82歳で死ぬ。
…。

あるいは寿命とは、まったく突発的な出来事であり、いつ死ぬか分からないこと。
…。


あなたは、どう思いますか。
私は寿命は自分で決めてきていると思っています。

なので、突発的な事故であれ病気であれ、それが起きた時が自分が決めた寿命だと思う。
ちゃんとした答えではないかも知れませんが…。

それは、いつなのか分かりません。


Photo credit:20120415 Tokoname 9 / bonguri

分かりませんが、その時まで精一杯体験を楽しむ。
それが、ここにいる理由だと思っています。

なので、考え方です。
楽しんでも、悩んでも、人に与えられた一日は一日であり、一時間は一時間なのです。

 

続きは次回に

※記事中の<Kさん>のお話、あるいは書物などの転載内容は、ほんの一部分です。
興味のある方、詳しく知りたい方は、FUJI日本のホームページをおすすめ致します。

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「不安・恐怖」により、ついつい悩んでしまいエゴに左右されていた自分を「想念観察・感謝瞑想」によって不安・恐怖が存在できない「いま」に集中できる事を教えていただいた○○様、そして「FUJI日本」のグループ並びに、ご担当者様に深く感謝いたします。

想念観察を広めるグループ!FUJI日本



一人でも多くこの記事を知ってほしいので、よろしくお願い致します。
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